並木塔子のための物語 その一
「弁当屋のお姉さん。」
それほど良い人生じゃなかった。それでもなんとか頑張っているのは弁当屋の彼女に逢えるからだ。
いつも笑顔で僕みたいなものにも優しく接してくれる。
「お仕事、お疲れ様でした。今日は何弁当にしますか?」
給料日前なので、少し恥ずかしかったが「のり弁」とぶっきらぼうに応えた。
「少々、待ちください。」
まぁ彼女にとってはマニュアル通りの対応なんだろうけど、俺は妄想の中で美人の奥さんに「あなた、ちょっと待ってね。」と言われている気分を味わっていた。
「はい。こちらです。」笑顔で手渡されたのは焼肉弁当だった。
「え?これ、違います。」
「いいえ、のり弁です。どうぞ。」
彼女はウインクして人差し指を美しい唇に押し当てた。
「ありがとうございました。」
元気な彼女の声。
僕は振り向きたい衝動を抑えながら急いで店を出た。
「だからよ。金出せって言ってんだよ。あるのは知ってるんだよ。」
塔子は蹴られて畳に吹き飛ばされた。
いつもそうだ。最初は優しい男でも、すぐにこんな風になってしまう。
殴られながらも泣かずにキッと男を睨み返した。
「なんだ!その顔は!」
ビンタで気を失いそうになった。
男はズボンを脱いで塔子の唇にモノを押し入れた。
「そら、ご褒美をやるから金を出せ!」
激しく腰を振られ、塔子は何度も吐きそうになった。
やがて男は挿入してきた。
痛さをこらえながら塔子は決心していた。
「あの人ね。やめちゃったみたい。突然来なくなってね。とんだ迷惑よ。」
弁当屋のおばさんがそう言った。
仕事を変えて忙しくなった俺は呆然とした。
「はい、焼肉弁当。1200円。」
おばさんはぶっきらぼうに弁当を俺に手渡した。
「勿体ないけどね…その顔じゃあね。」
ソープランドの店長は吐き捨てるようにそう言った。
「いい身体しているのにね…駄目だよ。うちじゃあ雇えないよ。」
前髪で隠しきれないほど大きな顔の傷がある塔子は、肩を落として店を出てきた。
ポケットに手を入れて取り出した小銭は820円しかなかった。
お腹がなった。二日間なにも食べていない。
ピンサロの店長には「だめだめ、いくら暗い店内と言ってもその傷じゃあ…」と言われた。
あとは路上に立って身を売るしかなかった。
「もっとうまくやればよかった…。」
逃げるのが見つかってあの男にこの傷をつけられたのだ。
蚊の鳴くような声でそう呟いた。
声をかけてくる客もいたが、塔子の顔を見て逃げ出してしまう。
なんとか前髪で隠そうとするが、それがよけいに傷を目立たせてしまっていた。
今夜、客がつかなかったら…塔子は死ぬことを考え始めていた。
高校を出て工場で働いていたが、そこの工場長に強姦のような形で処女を奪われた。
2年ほど愛人のような待遇を受けていたが、美人の新入社員が入ってきたので捨てられてしまった。
それからなんとか地方の信用金庫で働くが、係長に結婚を申し込まれて付き合うようになるのだが、その男には家庭があった。
つぎにコンビニの店員として働くが、アルバイトの大学生が強引にアパートに転がり込んできて同棲生活が始まる。
しかし、大学生というのは嘘でその男の兄貴とよばれる男に弄ばれられるようになってしまった。
水商売をさせられて稼ぎがすべて奪われる生活が続いた。ー
その男から逃れて、弁当屋で働くことにした。見つかるはずがないと思っていた。
人生をいちからやり直すつもりだった。
しかしある日、アパートに帰ると男が上り込んでいた。
泣いたら負けだと思っていた。泣いたらすべてが壊れてしまうと思っていた。
塔子は路地裏の段ボールの中で寝ようとした。
しかし、ホームレスの男たち数人がいた。
「襲われるかも…」そう思って逃げ出した。
「お前みたいな化け物は襲わないよ!」男たちの罵声が背中に聞こえた。
ショーウインドウに映った、よれよれの自分の姿をみて塔子は笑った。
そして崩れ落ちた。
「だじょうぶですか?」
塔子はどうぞこの顔で驚いてください。と声をかけた男の顔を見上げながらにらんだ。
「あ!並木さんですよね。僕のこと覚えています?」
青年は顔の傷には驚いていたが、再会できた喜びのほうが勝っていた。
ホテルでシャワーを浴びている塔子は鏡に映った自分の顔を見ないようにしていた。
青年はベッドの上でパソコンを開いて仕事をしている。
塔子は全裸のままでシャワールームから出てきた。
「1万円でいいです。私を買ってください。」
青年はパソコンの画面から目を離さず笑った。
「なに冗談言っているんですか。大丈夫ですか。ちょっと遠いけど夜間診療をしている病院を見つけました。」
塔子の顔の傷ができたばかりのものだと思っているのだろう。
「この傷は治らないの。」
「え?」
画面から顔を上げると、想像していたよりも数倍きれいな裸体に驚た。
「なんで裸なんですか?」
「だから買ってください。5千円でもいいです。」
「なに言ってんですか。早くガウンを着てください。」
「やっぱり駄目ですか…」
塔子の大きな瞳から涙がこぼれた。
「あれ?なんで…?」塔子は涙をぬぐうがあふれ出た涙は止まらなかった。
青年はガウンを羽織らせ塔子の肩を抱いた。
「何があったか知りませんが…今日はほら休んでください…」
そういってパソコンを片づけてベッドに塔子を眠らせた。
こんな風に眠ったのは何日ぶりだろう…塔子が目を覚ますと部屋には誰もいなかった。
昨日は混乱していたのでわからなかったが高そうな部屋だった。
テーブルの上に朝食が用意されていた。
小さなメモがあった。
「塔子さん。仕事があるので少し出かけてきます。絶対にいなくならないでください。夜までには戻ります。」
塔子は食事を貪った。何日ぶりだろう。
そして服を着て逃げようと思った。しかし、部屋の中には自分の服がなかった。
塔子が服を探しているとホテルのドアのチャイムが鳴った。
ドアを開けるとホテルのメイドさんが立っていた。
「こちらをお届けに上がりました。もし気に入らなければフロントにお電話ください。」
そういって洋服を数着置いた。
「これは…返品ができないのをご了承ください。」
そう言って女性用の下着を何組か置いて、メイドさんは部屋を出て行った。
狐につままれているようだった。
鏡に映った自分の顔には大きな傷がある。
服を抱きしめて全裸のまま、ベッドに座り込んだ。
「これを着て逃げるなんてできないよね。」塔子は呟いた。
テーブルの上に820円の小銭が置いてある。
塔子は思案に暮れていた。
気がつくと全裸のまま眠っていた。
ドアを開けて青年が入ってきたのに気がついた。
「よかった。もしいなくなっていたらどうしようかと思って…気が気じゃなかった。」
青年は裸の塔子にシーツをかぶせていた。
「お願い。服を返して。それに私を買って。いくらでもいいから。」
「塔子さんに服を返してお金を渡したら…いなくなっちゃうんでしょ。」
「わたしは男の人形じゃない。あんただってどうせ…あんただって!」
塔子は泣きだした。泣きながら自分らしくないと思った。
工場長に犯された時も、銀行員に騙された時も、偽大学生に玩具のように扱われた時も、あの男に顔を傷つけられた時も…
「あんただって。この顔を見てぞっとしているんだろ!」
青年は黙って塔子を抱き寄せた。
そして塔子の顔を見つめた。
「僕のこと覚えてないでしょ?」
泣き叫ぶ塔子の頭を撫でながら優しく肩を抱いた。
「塔子さんを買うことなんて絶対にしない。そのかわり。」
泣き疲れて落ち着いた塔子は優しい声で答えた。
「その代り?」
「僕を買ってください。」
「え?」
「僕、この歳で童貞なんです。貴重でしょ。だから塔子さんが僕を買ってください。」
あっけにとられて何も言えない塔子は思わず微笑んだ。
「私があなたを買うの?お金ないわ。」
青年はテーブルの上の820円を見た。
塔子もつられて小銭に目をやった。
「あの全財産で僕の童貞を買ってください。」
「そんなに安くていいの?」
「なんと、今ならここにある服全部がついてきます。」
「え?」
「おまけってそそられるでしょ。僕を買った後にその服をどうしてもいいですよ。なかなかいい条件でしょ。」
「こんな高価なもの…」
「え?僕の童貞は納得の価格ですか?」
「いえ、そんな…」
「大丈夫です。この服はそれほど高価なものではないです。あのメイドさん、僕の妹なんです。妹に安い服を買ってきてもらったんです。」
「うそ?」
「この部屋だって、家族割引。一泊6千円です。」
塔子は少し安心した。
心の底で王子様の登場を少し想像していた自分を笑った。
「そうよね。おとぎ話はありえないわよね。」
「あれ、僕が金持ちじゃないので残念だった?」
「ううん。なんか嬉しい。現実っぽくて。」
塔子さんは、あの時と同じように笑った。
「まぁ、僕の童貞を買ってくれたら何かが変わるかもしれませんよ。僕だって…」
「え?なに?聞こえなかった。もう一度言って。」
「とにかく僕の童貞を買いますか?。それとも全裸のままこの部屋から出ていきますか?」
「脅迫ね。」
「そうです。僕は悪い男です。」
二人は笑いあってそのままベッドに倒れこんだ。
「私、下手だよ。」
「僕は初心者です。」
スタイルの良い塔子さんはどの服を着ても似合っていた。
「本当にいいの?」
「いえいえ。夢のような時間を過ごせて…こちらこそありがとうございました。」
塔子は少し黙った。
「ごめんね。こんな傷のある女が初めてだなんて…」
「大丈夫ですよ。僕、気持ち良すぎてほとんど目をつむっていましたから。」
塔子は笑いながら泣き出した。
「あなたに会ってから泣いてばかり…駄目ね。」
肩をポンポンと叩いてテーブルの上の820円を手に取った青年はこういった。
「あの時の、のり弁と焼肉弁当の差額が820円って気づいていました?」
「え?」
「あの時、あなたにやさしくしてもらって僕は人生をやり直せたんです。」
「そんな。」
「だから感謝するのは僕のほうです。でも…」
「でも?」
「この服を着ていなくなっちゃうのは嫌だな。」
塔子は何も言えなかった。
「そこで相談なんですけど。この820円で塔子さんの人生を僕にを売ってくれませんか?」
「え?」
塔子を傷つけた男は多くの女性被害者から訴えられ傷害罪で逮捕された。
偽大学生は金銭で塔子を男に売り渡したので人身売買の罪で逮捕された。
銀行員は結婚詐欺の罪で逮捕される代わりに示談金1200万円を塔子に支払うことになった。
工場長は強姦罪で捕まることはなかったが、工場を乗っ取られ、無一文になって放り出された。
「まさか司法試験に受かって検事になるなんて…」
「全て塔子さんのおかげです。」
「そんな…」
前髪をかきあげた塔子の顔は、ですっかり目立たなくなっていた。
男たちから搾り取った金で整形手術をうけた。
今では自分で弁当屋をやっていて繁盛している
「塔子さん。じゃあ、のり弁の代金 これで足りるかな…」
青年は結婚指輪を差し出した